遠い記憶

おまけ話


「三つ編み」


「髪の毛が、結えない……?」
 がたごとと、すっかり体に馴染んだ振動に身をゆだねながら、拓也は真子に聞いていた。
 ここは牛車の中。真子が中途半端に解けた髪を手に、小さくうーんとうなっている。髪の毛に入り込んだ草を取るうちに、三つ編みが解けてしまったのだ。
「今まで結わえたことなんか無かったの。こっちに来てからは、美幸に毎朝やってもらったし」
 単に事実を確認するつもりで聞いたのだが、彼女の自尊心を多少傷付けたらしい。むっとした表情で言い返され、ああと納得する。真子が髪を伸ばしていたのは、背中の痣を隠したかったからだ。
 服だけでは足りない。自分の髪でも覆い隠したい。そう無意識に思わせるほど、彼女にとって前世の痕跡は忌まわしいものだった。
 だが、その前世の世界に来た以上、そんな思いにこだわってはいられない。吹きさらしの野原で、馬を駆る中で、その長く垂らした髪の毛が視界をさえぎり何かに絡みついたら、それは即事故に繋がる。
 真子が真っ直ぐに伸びた自分の髪の毛にこだわったのは、初日だけだった。二日目、乗馬の訓練時に三つ編み姿で現れ、それ以降すっかりその三つ編み姿が定着している。けれどまさか毎日美幸が編んでいたのだとは、拓也は思いもしなかった。
「自分でやったことは?」
「何回か挑戦したことはあるんだけれど。結局いつも美幸が直してくれたんだよね」
「あいつ、妙なとこで几帳面だからな」
 というより、美意識が高いのか。
 真子がやったよれよれの三つ編みを見て、物凄い勢いで髪の毛をほぐしてやり直す美幸の姿。容易に想像出来るのだが、あえてそれは真子には言わないでおく。
「要はまとまっていればいいんだし、一つに束ねるよ」
 言い切る真子にふと思いついて、拓也は提案した。
「それなら、俺がやってもいい? 久しぶりだから多少は手間取るとは思うけど、そんなにひどいことにはならないと思うし」
「久しぶりって、どういうこと?」
 その訝しげな問いに、前提が抜けていたことに気が付いた。
「姉にやっていたんだよ。小さい頃。母さんが不器用な人で、姉さんが出来に納得しなくて、代わりに俺がやっていたという訳」
「そうなんだ」
 最初の表情から一転して、興味津々な顔をして真子がうなずく。そこから実際に頭を差し出され、解けた髪の毛をいじるまでは早かった。


 手渡されたコームで髪を梳く。艶々とした髪はうねりも無く真っ直ぐで、さらりとした感触が手に心地良い。
 きれいな髪、しているね。
 再会の夜を唐突に思い出し、苦笑する。台詞だけならまるで気軽なナンパのようだ。あの時どれだけの思いでそれを言ったのか、拓也の本当の感情に、未だに真子は気付いていない。
 梳いた髪を二つの束にし、左右の肩に振り分ける。うなじが視界に飛び込んで、なぜかそれだけでどきりとした。今まで髪に隠れていた骨格の一部が浮かび上がり、女性特有の線の細さや華奢な体付きを視覚で確認させられる。惹き込まれる様にうなじに生える産毛を眺め、その流れを目で追った。
 緩やかに曲線を描き、降りてゆく肩。Tシャツ越しに浮き出る肩甲骨。そしてその下には、服に隠されて見えない痣。
 無意識のうちに指は髪を離れ、うなじへと伸ばされていく。
 肌に触れたい。この、目の前にいる少女の鼓動を、息遣いを感じていたい。
 生きているのか、確かめたい。
 ぴくんと真子が身じろいで、我に返った。
 何をやろうとしていた?
 自分に向かって問いかける。そして気付かれないよう息を吐き、気持ちを切り替えた。手早く三つ編みを仕上げると、わざと気軽な調子で宣言をする。
「出来た。どう?」
「凄い! きっちり出来てるよ」
 嬉しそうにそう言って、真子が無邪気に拓也を見上げた。それに応えるよう、拓也がにこりと微笑んでみせる。いつもの笑顔。本音を隠し、見た目の良さでうやむやにしてしまう、あの笑顔。けれど三つ編みの出来の良さに気をとられている真子は、深く考えることなくその笑顔を受け止めた。


 この後ホータンウイリクの宿屋に至るまでの間、拓也は真子からの三つ編み要請に応えることはなかった。